一緒に帰ろう

 書類の束をまとめて上司が言った。

「さて、イギリスよ」
「はい?」
「我々は常に忙しい日々を送っている。最近は特にだ」
「そうですね」
「私も出来る限りのことはしているのだが、一人では限界というものがある」
「おっしゃる通りです」

 おっほん、と咳払いをし、両手を背中に回して、上司は仕事机のあたりをうろうろしながら話を続けた。この時点で既に俺はかなり嫌な予感がしていた。

「仕事の人数は一人でも多いほうがいい。お前もそう思うだろう」
「はい」
「ということで、だ」

 そこで足をピタッと止め、かかとを後ろで揃えた状態にして上司は俺の方を振り向いた。そしてはっきりとした声で言った。

「今日からお前にも私の分の仕事を分担してもらおうと思う」
「……はい?」

 固まる俺をよそに上司は冷酷に告げる。

「もうすぐ書類が来ると思うから、今日中に片づけておいてくれ」
 それだけ言うと上司はその場をさっさと立ち去った。

 しばらくして、代わりに俺の部下が数人、せかせかと部屋に入ってきた。
 各々の手には、これまた巨大な書類の束が抱えられていた。
 巨大な束が一つずつ丁寧に積まれていって、あっという間に机には両肘がぎりぎりおけるほどのスペースしか残らなくなってしまった。それでも書類は置ききれなくて、そばの机にも大量の山が積みあげられていく。
 俺はただそれを茫然と眺めていた。正直言ってこの量は想定外だった。

「……本当に今日中に全部片づけなければいけないのか?この量を?」
「……はい。上司はそう、おっしゃっていました」
「そうか……」

 幸いまだ日が昇ってからそれほど時間は立っていなかった。今からやれば定時には帰ることが出来るはずだ。そう信じて俺は黙々と机に向かった。
 ペンを走らせる音に紛れて、ご愁傷さまです……と部下たちの声が聞こえたような気がした。


 窓の外はもうすっかり暗くなっていた。仕事に追われているうちにいつの間にか結構な時間が経ってしまったらしかった。あんまり疲れていて、もう昼食をとったかどうかも定かでなかった。
 ふと隣を見れば相変わらず山詰みの書類が机に堂々と鎮座している。本当にこれ、今日中に片付くのだろうか?
 俺は後ろの背もたれにもたれかかって、ため息をついた。

「はぁ……」

 その時だった。コンコンとノックの音がした。どうぞ、と声をかけると、ドアはすぐさまに開いた。
 そこから現れたのは、意外な人物だった。

「久しぶりだな、イングランド」

*****



 訪ねてきたのは、三人いる兄のうち一番上の兄である、スコットランドだった。
 この兄に会うのはおおよそ一年ぶりくらいだろうか?
 一時期色々とあってよく顔を合わせた時期もあったが、あまり思い出したい記憶ではない。他の2人の兄とも良い関係であるとは言い難いのだが、それと比べてもこの兄とは仲は良いものではない。……いや、三人の中で一番悪かった。
 そんな兄が、どうしてここに来たのか。それは俺には分からないことだった。

「わざわざこんなところまで来て、どうしたんだ? 何か用でも……」

 ここはロンドンだ。俺住むマナーハウスがある場所でもある。名目上はそこに兄と俺と、もう2人の兄と4人で同居しているということになっているのだが、実際一緒に居ることなんて殆ど無いと言ってよかった。大体は自分の元々いた家に各々住んでいる。
 そしてこの人の普段いるであろうエディンバラとロンドンはそれなりに離れていて、何の用事もなしに来たりするような距離ではない……はずだ。
 しかし兄はあっけらかんと答えた。

「別に。ちょっとこっちの方に用事があったから、ついでに寄っただけだ」

 そう言って兄は勝手にその辺のテーブルに鞄を置き、近くのソファにすとんと腰を下ろした。有無を言わさない様子に俺はそれ以上何も言えなくて、静かに視線を書類に戻したのだった。


 ペンと紙がこすれる音だけが部屋に響き渡る。
 片付いた書類をめくるついでにちらりと俺が顔をあげると、兄がソファでくつろいでいるのが目に入った。そのまま何となく俺が見ていると兄は視線に気づいた。

「何をジロジロ見ている」
「い、いや……ごめん」

 俺はすぐさま下を向いてしまった。>
 ムッとした顔で睨まれたからついつい謝ってしまったけれど、でもジロジロ見たくなる気持ちもわかって欲しいものだ。だっていきなり部屋に入ってきたかと思いきやそのまま仏頂面で居座られているんだから。俺としてはそりゃあもう気が散って仕方がないのだった。
 ――これが腐れ縁のキザ野郎だったり、大西洋の向こう側の可愛げのない弟だったりすれば、もう少し気も落ち着いたかもしれないのだが。
 他の国からしたら、スコットランドは“イギリス”として、イングランドである自分と一括りにしてしまえる位の存在感らしいが、俺にとってこの兄の存在は良くも悪くも桁違いだった。
 それは昔から引きずっている気まずさによるものなのかも知れないし、自分が心のどこかにしまっている畏敬のような、憧憬のような感情によるものかもしれない。
 俺は手元のペンをくるくると回しながらあの頃のことを思い返した。
――生まれたばかりの頃、この人は石を削って作った刃物を手に持って森に住む獲物を仕留めようとしていた。それが俺の初めて見たこの人の姿だった。
 太陽のような赤い髪が、ゆらりと風に揺れてはその新緑の瞳にかかっては、また風にゆられていく。
 揺れる髪とは対象的に、その瞳は鋭く獲物を見据えている。  その姿があまりにも凛としていて、……美しくて、その時の俺はすっかり見とれてしまったのだった。この人の姿をこの目でずっと見ていたいと思ったものだ。
 まあ、その後俺もまたその獲物と同じように追っかけ回されたのだが。
 ……考え出すとその事ばかりがちらついて仕事に集中出来なくなってきた。俺はペンを一旦机に置き、左手で太ももをつねった。
 そんな時だった。突然、兄がソファから立ち上がってずかずかとこちらの仕事机のほうへ向かってきた。いきなりのことだったので俺は少し身構えた。やっぱり何かあるのだろうか?
 しかし兄の口から飛びだしたのは意外な言葉だった。

「まだ仕事が片付かないのか」
「え、ああ……うん」
「いつもこんな時間までやっているのか?お前も大変だな」

 急に自分を気遣うような言葉を言われて、俺は驚いた。そんな言葉をこの兄が言うのなんてめったにないことだからだ。急にどうしたの、と言いたくなるのをぐっとこらえて返事をした。

「いや、……今日はちょっと量が多くて」
「ふうん」

 兄はそれだけ言うとさして興味もなさそうに元の位置に帰って行った。そっけない態度だった。でも部屋から出ていくつもりは無いらしい。本当に何がしたいのだろうかと俺は思った。昔からこの人は分からない。
 そういえば、他の二人だってそうだった。一応兄弟であるはずなのだが、この兄達の考えていることは俺にはいまいち分からない。しかし彼らの間には何かわかりあうものがあるらしく、それなりに仲良くやっているという話を、俺はよく風の噂で耳にしていた。
 自分の生い立ちやら、彼らに対して自分がしてきたことやらを鑑みれば至極当たり前のことなのだろうけど、それでもやはり俺は悲しかった。
 せっかく四人兄弟で、そして一応は同じ家に住んでいるっていうのに。いつだって俺だけ除け者で、兄たちは互いの家で和やかに笑いあっている……。

「お前がそんな顔するなんて珍しいな」

 ソファに座り直した兄がいつの間にか俺のことを見ていた。俺が何したってそんな顔しないくせに。とでも言いたげな表情だった。
 兄はもしかして仕事で俺が参っていると思っているのだろうか。確かにそれもあるけど、でもそれじゃない。

「まあ俺は何もしてやらんがな」

 そう言って、兄は新聞に視線を戻した。もちろん兄のすることでもないし、出来ることでもないから、俺だって流石に手伝えとは言えないし言わない。
 ただどうしてそこに居てくれるのか、それだけが気になっていた。

 またしばらく静寂が部屋を包んだ。俺は黙々とペンを走らせる。でも。
 ……やはり落ち着かない。このままだと仕事が終わらない。
 帰ってくれと一言いえば済む話にも思えた。でも俺には出来ないのだった。>
 ……久しぶりに兄の声が聞けたことが嬉しかった。その姿をまじまじと見ていられることが、同じ時間を過ごせていることが。とても嬉しかったのだ。だってそんな機会は滅多にないから。いつだって、彼らは忌むべき存在として、良くて他人として、俺を遠ざけるから……。

 嬉しいけれど仕事は進まない。向こうは何を考えているのかわからない。そんなぎこちない空間に耐えられなくなった俺はしばらくぶりに口を開いた。

「そうだ、紅茶でも淹れようか?兄さんも、仕事帰りで疲れてるんだろ」

 仕事部屋だけど客人をもてなす用という名目で、ポットとティーセットだけは一式揃えて棚にしまってある。しかし実際それで使ったのは数えるほどしかなく、ほとんどは自分で飲む用だった。
 まさかわずか数回の客人のもてなし用に使われる日が今日こようとは俺自身夢にも思わなかった。しかもその客人がまさか自分の兄だなんて。
 兄は何も言わなかった。聞こえていないのかもしれない。返事を待たずに俺は茶葉を缶から出し、ケトルに入れる。
 ポットのお湯をケトルに注ごうとすると、突然兄がやってきてそれをぶんどった。
「どけ。俺がやる」
「え、でも」

 兄は冷たく言い放った。

「お前の淹れた茶なんぞ飲みたくないんでな」
「……そう」

 俺は仕事机にしぶしぶ戻った。

 いつだって氷のように美しく輝いていて、どんなに焦がれたって決して触れることを許してはくれない。それが俺にとってのスコットランド兄さんだった。

*****



 紅茶のいい香りがする。兄の入れた紅茶の香りだろう。
 確かに美味しいのだ。昔仕事の都合で何回かあちらでもてなしを受けたことがあるが、その時出されたお茶は間違いなく美味しかった。
 香りがこちらにも漂ってくる。いいなあと思って俺が顔を上げると、視界には極太の自分と同じような眉毛が広がった。

「!な、なんだよ急に」
「ほれ」

 兄は手元のティーカップを俺に向けて差し出した。

「ついでだ、ついで。まあそれでも飲んでさっさと終わらせることだ」

 固まったままの俺をよそに、兄は勝手に机にカップを置くと、そのままこちらを振り返ることはなかった。

 水分を口に含んで初めて、俺は換気もろくにしていない暖房のきいた部屋で自分の喉がすっかり乾いていたのに気づいた。
 そう言えば、今何時だっけ?もう日も暮れてしまっている……。
 いつもなら欠かすことなどない午後のお茶の時間をとっくに過ぎてしまっていることに今更ながら俺は気づいた。
 アフタヌーンティーすら忘れるだなんてどれほど集中していたんだろう? ……いや、兄の事が気になりすぎて他のことに気が回らなかったのか。
 紅茶を片手に、俺は仕事を再開した。書類は先程より思いのほか捗って、定時はすっかり過ぎてしまったけれど、なんとか食事と睡眠の時間は確保できそうだった。俺はホッとし、やはり休憩は大事だな、と改めて実感した。それと。
 ――この紅茶のおかげもあるかな。
 俺は手元のティーカップからただよう香ばしい香りに頬をほころばせた。


 仕事も終わり、最後の一口を飲み終え、カップをソーサーに戻して俺は兄に言った。

「紅茶、美味しかった。……ありがとう」
「俺の入れた茶が美味くない訳がない」

 兄があまりにも真顔で言うものだから俺はなんだかおかしくなって笑ってしまった。

「ははは……それもそうだ」

 兄はソファから立ち上がった。先程まで読んでいた新聞はとっくにたたまれていた。紅茶の入っていたであろうティーカップもすっかり空だ。結局この人が何をしに来たのかは分からずじまいだったが、とにかく、ようやく自分の家に帰るのだろう。
 俺はそばにかけてあったコートを兄に渡してやる。

「それじゃあ、また」

 そう言って、兄の見送りをしようとした時だった。兄は顔をしかめて言った。

「あ? またってなんだよ。お前ここで寝泊まりする気か?」
「え? いや……」

 突然の不機嫌に戸惑う俺を見て兄はハァ、とため息をついて、それからそっぽを向いて言った。

「……家に帰るんだろ。ほら、さっさと片づけろ」

 そして背を向けて、ぼそっと。でも確かに、兄は言った。

「今日は一緒に帰ってやるよ。……あの家に」

*****



 外はすっかり暗くなっていた。冷え込んだ空気に、長時間暖房の効いた室内にいた俺は少し肩をこわばらせた。

「……寒いのか」

 兄が少し心配そうに声をかけてくれた。白い息が兄の顔にかかって、もくもくと暗闇に消えていった。

「い、いや……もう大丈夫」
「そうか」

 兄の態度は相変わらずそっけないものだったけれど、俺にはなぜかそれが先程とは違って温かく感じられた。
 街頭の明かりもまばらな道。そんな道を、兄と二人で歩いている。俺にはとても信じられないことだったが、確かに二人並んで歩いていた。まるで……そう。仲の良い兄弟みたいに。
 外は寒かった。でも不思議とそこまで寒さは感じなかった。なぜだか眼の奥が熱くなっていた。
 俺は兄に話しかけた。「あのさ」
 兄はぶっきらぼうに答える。

「……何だ」
「その……迎えに来てくれたのか?」
「……別にそんなんじゃない。ただ……」

 そこまで言って、兄は言葉をつぐんだ。そして少し俯いて、それからひと呼吸して言った。

「たまたま……だ。偶然そうなっただけだ。変な勘違いするんじゃねえ」
「……そっか」

 目的地が近づいていた。この石畳の道を渡り終えたらもうすぐそこだ。

「……ありがとう。兄さん」
「……お前なんかに礼を言われても全然嬉しくない」
「そう? じゃあ神様に感謝しておこうかな。今日という素晴らしい日をありがとうございます、って」
「……ふん」

 家に着くまで、それっきり俺たちの間に会話は無かった。
 暗くてよく見えなかったから錯覚かもしれないけれど、俺には兄の顔がほんのりと赤みを帯びているように見えた。
 寒さのせいだろうか。しかし俺にはそれが兄の照れ隠しのように思えて、俺はひっそり微笑んだ。
 だけどそんな俺の顔もすっかり赤くなっているなんて、頬よりずっと暖かい胸のぬくもりに浸っていた俺は、気付きもしないのだった。


ただ少し気になっただけ。たまには家に帰ろうかなと思っただけ。