記憶にございません

 例のマナーハウスに珍しく兄弟が揃う……もとい、帰ってくるというので、この俺、イングランドもまた、そう頻繁に訪れることのない屋敷で一日を過ごすことにした。
 昼時を少し過ぎたころ、最初に屋敷へ来たのはウェールズ兄さんだった。俺がおかえりなさいと声をかけようとするその前に、まず兄さんが俺に言った。
「ほかの二人は?」
「ウェールズ兄さんが一番乗りです」
「あ、そう」
 それだけ残して兄さんは自分の部屋に籠ってしまった。何しに帰ってきたんだあの人は。
 夕方に差し掛かったころ、玄関の扉がガチャリと音を立てた。「やっほ~。みんな、もう来てる?」
 北アイルランド兄さんだ。
「こんばんは。ウェールズ兄さんが昼過ぎに来て、そのまま自室に籠ってるよ」
「なるほど。じゃあ、ちょっかいかけて来ようかな」
そう言って、北アイルランド兄さんもまた、俺を置いて屋敷の奥に消えてしまった。寂しくなんかないからな。

 さて、残すところはあと一人となった。一番顔を合わせるのが気まずい相手であり、一番気にかかる相手でもあり……俺に渦巻く複雑な感情の温床、長男、スコットランドだ。帰ってくるといったのだから来るはずで、中々プライベートで会うなんて五十年に一回あったらいい方なわけで、だから俺は根気よく待つ覚悟で少し手のかかりそうなレースの編み込みに手を付けた。
 案の定そこからが長かった。日はもうすっかり暮れてしまった。せっかく入れた紅茶もぬるく冷めてしまった。刺繍はもう終わって、朝から持って来た大量の本も二回目を終えてしまった。本当に帰ってくるんだろうか。
 仕方ないから部屋から何冊かまた本でも持ってくるか。そう思って廊下に出て自室へと向かっている最中のことだった。

 自分の部屋からそう遠くはない場所からなにやら物音がする。俺は耳を立て、音のする方へ向かった。
 しばらくして、俺は音のする部屋を見つけた。人の寝息が確かにそこから聞こえる。俺は嫌な予感を胸にしまったままそっと扉を開けた。
 予想通り、部屋の中には一番上の兄、スコットランドがいた。しかもベッドの中ですやすやと寝息を立てているではないか。いつの間に帰ってきたんだろう。今日は一日中家にいたが、そんな物音はひとつとして聞こえなかった。こちらが勝手に気にかけているだけだ、と言われればそれまでだが、それにしたってせっかく人が心配していたというのに、当の本人は一人ベッドでおやすみだなんて。しかも自分の部屋じゃないし。ここはゲストルームだ。と俺は脱ぎっぱなしの兄の上着を整えながら思った。また掃除しなきゃならないじゃないか。
 なんだか腹が立ってきた。

――そうだ。
 腹いせにいいことを思いついた。俺はベッドに近寄った。そのまま兄の寝顔をまじまじと見つめる。眠っている時のこの人が俺は好きだ。この時だけは警戒心のない姿を見せてくれるから。
 それは千年前から起きている時は俺には見ることのできないものだった。きっと、他の兄と心を許したわずかな友にしか見せない顔なのだろう。そう考えると今日だって、俺から見たら勝手に帰ってきたようにしか見えないけど、他の兄達には挨拶くらいしてるのかもしれない。それは腹立たしいというより純粋に悲しいし、寂しい。
 それにしても、整ったこの顔立ちは本当にこの人は自分と似た存在なのかを更に分からなくさせてくれる。長いまつげが自分の吐息でゆらゆらとゆれているのを眺めているだけでも十分に満たされる思いがする……のだが、今回はそれだけで済ませてはならない。俺はこれでも怒っているのだ。一応は。
 俺は片方の手のひらを兄の白く透き通った頬にあてた。ほんのりあたたかい。人の温かさってこんな感じなのかな。
 俺はそのままゆっくりと顔を兄のもとへ近づけた。兄の口元はだらしなく開いたままだった。俺は息をこらえて、唇をそっと兄のそれにあてがった。少し紅茶の香りがする兄の吐息が俺の鼻にふわりとかかる。
 その時だった。
「……ん」
 兄の低く唸る声がした。
 俺は驚いて唇をすぐさま放した。とっさのことであったから、自分の唾液が少し兄の顔へ残ってしまった。唇を半分開けたままで、兄の目がうっすらと開けられた。俺の頭の中では危険信号が鳴りびびいている。
 森のようなうつろな緑には、うっすらと俺の姿が映っている。まるで宝石のように艶めいて、綺麗で……じゃなくて、まずい、起こしたか。俺は後ずさりした。
 兄は太い眉毛をへの字に曲げてもう一度小さく唸った。体を少しこちら側にくねらせて、腕を動かしている。いけない、殴られるかもしれない。
 しかしその手はグーの形に握られることはなかった。手で自分の唇を拭った後、腕は元の場所へ戻った。そのまま兄は再び眠りについた……と俺が思った時だった。兄は何かをボソッと呟いた。
「いんぐ……ら」
「……兄さん?」
 気のせいだろうか、今俺の名前を言わなかったか。俺としてはもうそれはそれは震えが収まらなかった。飛び上がってひと蹴り入れられてもおかしくない。でも一番驚いたのはその後だった。
「……ふふ」
 兄はふっと微笑んだ。肩を寄せ、両手を顔へぎゅっと近づけて、まるで赤子が寝るような姿勢でそのまま兄は今度こそ眠りについた。
「……」
 俺はしばらくその場に呆然と立ち尽くした。顔が少し赤くなっていたかもしれない。胸の中にいっぱいの恥ずかしさと居たたまれないもどかしさを抱えてしまった俺は、まだ早い時間だったがもうさっさと寝ることにした。

 朝日が眩しく窓から差し込んでくる。新しい日の始まりを告げている。だけれども、俺は昨日のことが頭から離れなかった。
 リビングには既に兄たちがいた。スコットランド兄さんは淹れたてのお茶を片手に新聞を読んでいた。俺は兄さんをじっと見つめるも何事もなかったかのように無視をされている。そんな様子に気づいた北アイルランド兄さんが哀れみを感じたのか俺に声をかけてしてくれた。
「おはよう」
「あ、おはよう……」
 しかし戸惑いは隠せぬままで、北アイルランド兄さんにぎこちない返事をしつつも、俺はスコットランド兄さんから目が話せなかった。兄は不快そうに顔を歪めて言った。
「何をじろじろと見てるんだ。俺の顔に何かついてるのか」
「あ、いや……」
 俺が目を逸らして、もじもじしていると、兄がハア……とため息をついた。
「……まあいい、朝飯はまだか」
「ああ、ちょっと待ってて……」
 キッチンへ俺が向かった後もスコットランド兄さんは何ともない顔で新聞を読んでいる。まるで昨晩は何も起きなかったと思っているかのように。俺は気づいた。兄は寝ぼけていたのだ。だから……。
「覚えてないんだ……」
 唇はまだ兄の感触を覚えていた。ほんのわずかな間触れあっただけでも、俺はそれだけで満足だった。
 唇を指ですうーっとなぞって、満足げに微笑む俺を、兄さんは不思議そうに見つめていた。


2020/11/01