今日は雨が強いから

 目が覚めた時には、時計の針はもう夕方を指し示していた。
 …俺はあいつの膝の上に頭を乗せた状態で、部屋のソファに横になっていた。俺は驚きはっと飛び起きて、……そしてあいつの方を見た。幸い起きる様子は無く、すやすやと寝息を立てて、時折うう……と低い唸り声を漏らしていた。
 ……うなされているのだろうか。
 というか、そもそもどうしてここに居たんだったか。
 ……そう。今日は折角いい天気だったのに、まるで、あの日みたいに突然大雨が降ってきて。だからだろうか、何だかむしゃくしゃして、でもシャワーを浴びて、髪を乾かして……そして……そう、お茶が美味しくて。髪の毛を触られてもそのままにしていた。それで、だんだん眠気がしてきて。
 ……それでそのまま眠ってしまったのだ。
 外を見れば、雨はすっかり止んでいた。俺は自分にかけられていた毛布を家の主に返し、そして家を出ようとした。

 ドアノブに手をやった瞬間、弟がまた寝言を言った。

「……いか、ないで……」

 ……面白いやつ。あの時と同じことを言うのだから。
 だから、俺もまた、あの時と同じ台詞をつぶやいた。

「……もう少し、降っていたら良かったのにな」

*****


 その日は雨だった。俺――イングランドは、ロンドンにあるマナーハウスの自室で、もくもくと読書に勤しんでいた。
 朝起きた時には外は快晴で、折角だからガーデニングでもするつもりだったのだけれど、正午から突然降ってきたこの雨によって、その予定は変更になってしまった。
 昼を過ぎても、雨は一向に止む気配は無かった。
 雨自体はうちでは良くあることだけど、部屋の中までざあざあと音がするほど降るのは久しぶりのことだった。昨日はからっからの暑さで、それはそれで外に出る気がしないくらいだったから、その反動だろうか。
 まあ、雨の強さなんて室内にいれば関係のない事で、むしろこれくらいの音量のほうが読書には最適でもあった。
 ページを進めようとしたその時だった。家の戸がガチャリ、と開く音がした。誰だろう。扉には鍵がかかっているはずだから、少なくともこの家の鍵を持っている人間だ。秘書か、あるいは上司か……。
 俺は読みかけの本にしおりを挟んで、玄関に向かった。

 廊下を渡るたび、雨の打ちつける音がより一層強まっていく。風がごうごうと吹き荒れて、窓から庭の花が揺れるのが見えた。
 玄関の真ん中に、その人は立っていた。
 雨にすっかり打たれてきたらしく、濡れた服が肌にぴたりと張り付いて、がっしりした体のラインが外から見てもはっきりと分かった。その赤みがかった髪はぐっしょりと濡れてしまって、先端からは雨のしずくがぽたぽたと垂れている。
 透き通った肌は、寒さのせいか余計にその白さを増している。森のようなエメラルドの瞳は、冷たく俺を突き刺しているかのようだった。

「……兄さん」

 扉を開けて立っていたのは、三人いる兄の内の一人、スコットランドだった。



「……久しぶりだな、イングランド」

 兄は仏頂面でその場に立っていた。俺は少し驚いた顔をして兄に近寄った。

「随分と濡れたね。傘は?」
「持ってないからこうなったんだ」

 急に強く降ってきたものだから、仕方なくここにやってきた、とそれだけ言って、俺を素通りして兄は家の中に入っていこうとした。俺は慌ててそれを引き留めた。

「ちょっと待って。そんな姿でうろうろされたら、家中びしょびしょになるじゃないか」
「……」

 兄はしぶしぶ立ち止まった。こちらを振り返って鋭い目つきで睨んできたが俺は気にしない素振りをした。
 機嫌の悪そうなその表情とは裏腹に、兄の体は少し震えていた。この雨の中、傘もささずにずっと歩いてきたので流石にこたえたのだろう。

「タオルを持ってくるからそれまでそこにいてくれ。寒いかも、しれないけど……」
「そう思うならさっさと取って来いよ」

 兄は目も合わせず、威嚇するかのような低い声でそう言った。随分と虫の居所が悪いらしい。……単純に相手が俺だからなのかもしれないけれど。

「言われなくてもそうするさ。これ以上床を濡らされちゃあ、
堪らないからね」

 そう言って俺はバスルームへ急いだ。

 濡れた体を拭いてやろうと近づく俺から、兄はタオルを無理やりぶんどった。

「余計なお世話だ」
「……」

 ふかふかのタオルで体を拭って、とりあえず水滴は落ちない程度になった兄は、そのまま廊下をぶらぶらして立ち止まった。

「シャワーならあっちだよ」
「……」

 どうやら図星らしい。兄は黙って俺の指さした方へとぼとぼと向かっていった。俺は後ろから声をかける。

「タオルは向こうのかごに入れておいてね。着替えとかはその
辺にあるのを適当に持っていってくれ」
「言われなくても勝手に使うから安心しな」

 相変わらず憎まれ口の絶えない兄の姿を見送った後、俺は先程の部屋へ戻り、読書を再開した。……いい加減シャワールームの場所くらい、覚えてくれたっていいんじゃないかと思いながら……。


「よし、完璧」

 ティーセットが一式並んだ机を眺めて、俺は満足げにうなずいた。ポットのお湯をゆっくりとティーポットに注いでゆく。茶葉がぷかぷかと踊って、芳醇な香りが部屋に立ち込めていく。
 ちょうどすべて注ぎ終わったところで兄が現れた。

「……紅茶か」

 まだ髪がまだほんのり湿っていて、Tシャツにトランクス一枚の兄はやけに艶っぽく見えて、俺ははっと息を飲んだ。

「……おかえり。兄さん」

 兄はお茶の香りにつられてやって来たようだった。俺は空のカップを兄に見せた。

「兄さんの分もあるから、一緒に飲もう」
「……ふん」
「今蒸らしてるから、ちょっと待っててね」
「……おう」

 お茶がしっかりダンスしているのを確かめてから、俺は兄に尋ねた。

「兄さん、ミルクは?」
「いらない。ストレートで」
「分かった」

 お湯で温めておいた二つのカップを取り出し、ミルクを自分のカップに入れる。
 雨は未だその勢いを衰えることなく降っていた。

「……そろそろかな」

 俺は二つのカップに紅茶を注いだ。先程までの不機嫌はどこへやら、兄はすっかり気分が晴れた様子で、カップにお茶が注がれてゆくのを眺めていた。
 カップとソーサーを受け取って、兄はソファに腰かけた。俺もその横に腰かける。紅茶の香りが漂う中、うっすらとシャンプーの香りがした。いつも使っている物なのに、どうしてかその薔薇の香りは俺のそれとは全く別物の様に感じた。
 雨音の響く中、俺たちはソファで静かなティータイムを楽しんだ。二人で紅茶を飲むなんていつぶりのことだろうか。
 いつもは憂鬱な気分になるこの雨だけれど、今は心地よく感じられた。
 俺はソファから、窓の向こうで静かに降る雨を眺めていた。

「ダージリン」

 一口目をじっくり味わったのち、兄が言った。

「そう。一口で当てるなんて、流石兄さんだな」
「……ふん」
「前に兄さんのとこの人が持ってきてくれたんだけど、すっかり気に入っちゃってね、最近はこればっかり飲んでるんだ」
「確かに美味い。香りも良い」
「……気に入ってくれた?嬉しいな」

 嬉しくなった俺は、この茶葉の何がいいとか、これはどうやって淹れるのがいいとかをつらつらと熱く語った。兄はそれに返事をするでもなくただ黙ってそれを聞いていた。しかし決して俺が話すのを止めようとはしなかった。
 容姿も、ルーツも、話す言葉だって本当は違う俺たちだったけれど、紅茶の趣味に関しては兄と俺はそっくりだった。
 そんな中、兄の口がようやく開いた。

「それで……どこで手に入るんだ、これ」
「あ、うん。えっとね、俺が買ってるのは……」

 俺がその時茶をよこした人間に尋ねたように、兄もまた俺にそれを尋ねた。てっきりスコットランドにあるものだと思っていたその茶が、ロンドンにしかない店で売られていると聞いた時には俺も驚いたものだ。

「だから多分こっちまで来ないと無いんじゃないかな」
「……じゃあ、直接送って来い」

 この人の紅茶好きは俺も敵わない。紅茶の文化がこちらに渡ってきたとき、俺も結構はしゃいだ方だったけど、スコットランド兄さんの嵌まりっぷりは俺の比ではなかった。あの時決して穏やかな関係ではなかった俺達だけど、それでも俺がお茶を持ってくると喜んで歓迎してくれたくらいだった。

 再び沈黙が訪れた。でも苦痛ではなかった。すぐ隣に兄の体温を感じながら、ざあざあと降る雨の音を聞いているのは俺にとってむしろ心地のいいことだった。
 ……兄はどうだろう。もしかしたら早く帰りたいと思っているかもしれない。この雨がそれを許してくれないだけで。
 そんなことを考えていると、兄が口を開いた。

「……止まないな」
「止まないね」

 兄もまたガラス越しの外を眺めていた。雨が止む気配は一向にない。

「こんなに降るとは思わなかった」
「そうだね。ここまで降るのは珍しい」

 兄はどこか悲しげな顔をしているように見えた。

「しばらく止みそうにないし、車で送ろうか?」
「別にいい。今すぐ帰らなければいけないわけでもないし」
「……そう」

 ティーカップが空になって、俺は何もすることが無くなった。
 雨を見るのにも飽きたのか、兄もまた窓から目を離して、ソファから何処か遠くを見たまま、ぼんやりとしていた。
 沈黙が心地よくて、何かを話すのはそれを壊してしまうような気がして、出来なかった。
 俺は兄の横顔を見た。白い山なりの高い鼻と綺麗に整った長いまつげ、いつ見ても美しいなと改めて思う。どこか冷たくて、棘があって、でもだからこそ惹きつけられるのだ。
 中でも一際際立っているのがその真っ赤な髪だと俺は思う。燃えるような赤。太陽のように暖かくて、柔らかな、だけど俺には無い、おれには……。

「……どうした」
「え? ……あ……ご、ごめん!」

 兄の声で俺は我に返った。見とれているうちにいつの間にか兄の髪に触れてしまっていたようだ。俺は慌てて手をのけた。

「お前は何かにつけてこれを触りたがるな? そんなに俺の髪が気になるか。魔女みたいな髪の色だものな?」
「そ、そんなつもりじゃ……兄さんの髪、俺は好きだよ。すごく綺麗なんだ。だから……その、思わず」
「……ふうん」
「あの、もう少し触ってていい?」

 いつもならこんなことを言ったら何が飛んで来るかわかったものではない。
 しかし、何となく、雨がそれを許してくれるような気がした。
 兄は一瞬こちらを見たあと、すぐに視線をそらして言った。

「……好きにしろ」

 ざあざあ……と雨が降り続いている。
 どれくらいの時間が経っただろう。俺の指は兄の髪を通したままだった。手を回して一本一本を指に絡めたり、すっと引いて赤のゆらめくのを楽しんでいた。

「兄さん」
「なんだ」
「いや、何でもない」
「……そうか」

 いつもより心なしか距離が近い気がするのは気のせいだろうか。肩が触れ合うほどこの人を近くに感じるのは錯覚だろうか。
 なんだか今日が特別な日のような気がしていた。真夏に降る大雨といい、まるで……。

(そう、あの日もこんな雨だったんだ……)

 ソファの上で、兄の髪をもて遊びながら、その顔立ちがいくらか幼かったあの頃を思い返していた――。

*****


 ずっとずっと昔のことだ。俺たちがまだみんな国であったころ。あの日も確かにひどい雨が降っていた。
 無慈悲に体を貫く水の矢を全身に受けながら、泥まみれになった地面を俺は何度も何度もこけそうになりながら歩いた。体は早急な休息を求めていた。俺はどこか休める場所がないか必死に探していた。
 寒さで震える身体がもう限界だと叫びだしたころ、俺は木々のなかにひっそり佇むちょうどいい洞穴を見つけた。
 ……ここなら大丈夫だろう。
 そう思った俺は早速、穴の中に入った。
 真っ暗なはずの洞穴の中は不思議と明るかった。違和感を覚えながらも中に進むと、見覚えのある人影が目に入った。
 はっきりと見えるくらいまで近づいたとき、己の名を呼ぶ声がした。

『……イングランド?』

 焚火の明かりでぼうっと照らされた中にいたのは、兄のスコットランドだった。兄はあぐらをかいてその場に座っていた。
 俺は驚いて、急いでその場を立ち去ろうとした。そんな俺に兄が不思議そうに声を掛けた。

『何で出ていこうとするんだよ』

 俺は振り返って兄を見た。瞬間そのエメラルドグリーンの瞳と目が合った。
 兄さんが俺を見ている。
 視線を一身に受けて、俺はどうしていいか分からなくなって下を向いた。兄は話を続けた。

『お前も雨宿りしに来たんだろう。こんなに雨が降るのは珍しいからな』

 暗がりの中、俺はその場でじっと兄の足元を見つめていた。顔を見る度胸は無かった。背を向けることも出来なかった。
 俺が怯えているのを感じたのだろうか、兄は優しく俺に話しかけた。

『……べつに追い出したりしないから。安心しろよ』

 その言葉に顔を上げた俺を見て、兄はこっちへ来いと手を振った。俺は兄の元へ歩き始めた。
 あの頃の小さくてひ弱な俺は、今とは違ってひどくこの兄のことを恐れていた。
 本当は兄の側に行きたかったけど、俺は少し距離を置いたところに座った。

『こっち来いよ。寒いだろう』
『でも……』
『いいんだよ、俺があったかいからな』

 いつになく優しい声だった。暗がりではっきりと見えたわけではなかったが、兄の表情は柔らかく、家に帰ってきた家族を迎えるような、そんな顔をしていたように思えた。初めてみる兄だった。
 俺は兄の元に近寄った。兄は自分の羽織っている布を弟に半分被せ、ぎゅっと俺の体を引き寄せた。肌と肌が触れ合うような距離だった。人肌のぬくもりというのはやはり温かいもので、外で冷えてしまった体は少しずつ、ぽかぽかと暖まっていった。
 俺はほんのりと眠気を覚えた。体が非常に疲れているのもあって、このまま眠ってしまいたいとすら思った。

『……あったかい』
『……そうか』

 ぬいぐるみを抱えるように兄は俺の肩を腕ですっぽり覆った。目元と胸の奥がなんだか熱くなって、二人で寄り添ったらこんな所まであったかくなるのか、と俺はぼんやりと思った。まるで母親の胸の中で笑う赤子のような……そんな気分だった。

『にいさん』
『何だ』
『もう少し、こうしていたい』

 緩やかなまどろみのなかで、俺は瞼を半分閉じたまま言った。視界も半分ぼやけていた。

『……雨が』

 兄の手が、ゆっくりと俺の頭を撫でた。

『雨が止むまでは、ここにいるよ』

*****


 思い出に浸っていると、突然、目の前の赤が消えた。その後膝にドスン、と重みを感じて、視線を下に向ければ、兄が俺の膝の中で眠っているのが見えた。

「スコットランド、兄さん……?」

 俺は驚いた。体は動かさないように慎重に、兄のその寝顔を見てみた。長いまつげに息がかかってゆらゆらと揺れていた。
 自然と独り言が漏れた。

「兄さんは覚えているのかな? あの日のこと……」

 遠くで焚き火の音が聞こえる。どこかでパチパチと火の粉が舞っている。

「俺は、ずっと……ずっとあそこに二人で居たかった。雨が止んだって、焚き火の火が消えてしまったって」

 俺は起きない兄をぼーっと見つめていた。

「兄さん……俺、は……」

 声は、雨の音にかき消された。まぶたが何時になく重かった。

 ――いつだって貴方は俺の元には来てくれない。
 籠の中に閉じ込めても、あなたが籠の鳥になってくれなければ何の意味もないのだ。
 暗闇の中に俺と兄がいた。兄は巨大な弓を握っている。弦がはち切れんばかりに引かれ、矢が俺に向けられた。

『来るなよ、目障りだ!』
『お前なんかどっか行ってしまえ!』
『どうして、お前は……』

 ――兄さん、にいさん、どうしてそんな酷いことを言うの? どうして一緒じゃいけないの?
 兄が森の中に一人消えていく。俺をその場に残したままで。

 ――いかないで。
 ――そばに居てよ。

『……う、うう……』

 洞穴の中で目が覚めた俺は、自分の物ではない布だけが残っているのを見て、急いで洞穴を飛び出した。
 外に出ると雨はすっかり上がっていた。そこに兄の姿は無かった。どこを探してもいなかった。
 雨はあがったというのに、何だか酷く肌寒かった。残された布を握りしめても、ぬくもりはもう残ってはいなかった。

『にいさん……』

 広い森の中、俺はまた一人になったのだった。

*****


「……いか、ないで……」

 寝言と共に俺は目を覚ました。懐かしい夢を見ていたようだった。
 俺はとっさに起き上がって、あたりを見回した。
 ソファには毛布が一枚かかっているだけで、兄の姿はなかった。あの時と全く同じだった。
 二つのティーカップだけが、静かに机の上に並んでいた。

 先程までの雨は嘘のように止んでしまって、部屋はすっかり静まり返っていた。窓には暖かな日差しがさんさんと差し込んでいて、遠くの雲と雲の合間に、うっすらと虹がかかっている。
 空っぽになった部屋の中で、俺はひとときの夢から覚めたような感覚で一人、窓の外からすっかり晴れてしまった空をぼーっと見つめていた。


イギリスで大雨がふるのは珍しいということで。そんな日くらいは兄弟らしくしていてほしいなっていう話でした。